親戚宅での受け入れが可能になったので、家や仕事場の片付けの手伝いに行ってきました。
何枚か写真を撮ったが、公開は控えさせてもらおうと思います。
2月3日 初日
節分のこの日、羽田から能登空港に降り立ちました。
重装備の人が何人かいましたが、飛行機はガラガラ、この方々に尊敬と感謝の気持ちで涙が浮かんできてしまいました。
こんな状況でありながら飛行機を飛ばしてくれている全日空にも感謝です。
空港まで車で迎えに来てもらい、早速親戚宅に向かう道中、割れたアスファルトや倒壊している家屋が目に入り衝撃を受けました。
絶句です。
私が思っていた以上の被害に胸が痛くなりました。
傾いた家の横を通った時は、このまま倒れてくるのではないかと恐怖を感じながら親戚宅に到着。
めちゃくちゃな家の中で少しお話しをしてから片付けに入る。
作業内容は割愛するが、仏間で香炉の灰が畳にぶちまけられてたのがかなり厄介でした。
電気が通っていないため、16時30分くらいには作業終了。
懐中電灯やランタンの明かりの中での夕食。
一ヶ月経っていることもあり、水道は使えないが毎日給水車が来てくれているので、不便ではあるが水に困るほどではなかった。
支援物資も輪島市内にはしっかりと届いている。
カセットコンロを上手に使っての夕飯をいただき、不謹慎ながら楽しみにしていた「自衛隊のお風呂」に入りました。
昨日ちゃんと風呂に入った私ですらこのお風呂に大きなありがたさを感じました。
親戚は発災してから10日後に入れたようなので、気持ちよさは格別だったそうです。
この日は電気もないのでさっさと就寝…するも、余震で何度も目が覚める。
ダメージを受けていて、少し傾きもある家での余震は本当に恐怖でした。
被災者はこのストレスをずっと受け続けていると思うと、胸が痛くなってくる。
2月4日 二日目
一日中片付け。
タイル貼りの浴室は四方割れていてもう入れないだろう。
特筆することはないが、初日は怖くて避けていた道も通れるメンタルになる。
慣れてしまうものだ。
そうそう、男の小は裏庭で済ませている。
久しぶりに立ちションをした。
立ち上る湯気に懐かしさすら感じたりもした。
今の時代、平常時にはとても出来る行為ではないw
2月5日 三日目
早朝から高所作業車で北陸電力の方々が復旧に向けて作業してくれている。
夕方くらいには復旧するそうだ。
過酷な環境の中、人々のために頑張ってくれていることに感謝。
倒壊している家屋にも慣れてしまった。
最初は写真を撮る気にもならなかったが、簡単に慣れてしまうものだ…。
物置となっている三階ではタンスが踊り狂って倒れている。
地震の対策がされてなかったので、バタバタと倒れている。
起こそうとしても、引き出しが抜けてきたりで一人での作業はとても無理だった。
地震への備えは重要だと実感。
夕方に電気が復旧。日常が少しだけ近づいた。
テレビも観れるし携帯の充電も出来る。
非常にありがたい。
2月6日 四日目
来てからずっと便秘だったがやっと解消された。
当然トイレが使えないため、非常用トイレで事を済ます必要がある。
昨日まではしようにも理性からか直前でストップが掛かってしまい、全然出すことが出来なかったが、これで持っていた抵抗が薄れただろう。
自衛隊のお風呂に続き、これはこれでいい経験だ。
この日は自衛隊のお風呂の行列があまりにも長かったので入浴は断念。
シートで顔や身体を拭くだけでもさっぱりとする。
2月7日 五日目
この日は職人さんらと荒れ果てた仕事場の片付けである。
完全な力仕事、普段座ってばかりの私はヒーヒーだ。
肉体的に一番キツかったが、一番達成感があった。
時代にそぐわないかもしれないが、力仕事の男性陣に対して女性陣がご飯を作って待っていてくれ、昼食後に送り出してくれる感じがとても自然的に思えた。
いってらっしゃい、がんばって、気を付けて、温かいご飯と声掛けでやる気が出る。
男性陣4人、ほぼ一日中の作業でだいぶ片付いた。
2月8日 六日目
仕事場も人数が必要なところは片付いたので、この日は屋根裏の片付け。
レコードや本が大量に出てくる。
漆器などもあるが、価値が分からない。
価値があるかもしれないし、ないかもしれない。
価値があったとしても、価値が分かり引き取ってくれる人を探す手間を考えたら捨ててしまう方が楽だと思った。
が、なかなか捨てられないのが人情。
自分のものは生きているうちに自分で始末しないとならないと感じたこの日でした。
2月9日 最終日
お昼過ぎの飛行機で帰るため、この日は軽い掃除だけ。
帰りの飛行機はほとんどの席が埋まっていた。
滑走路が少し凸凹しており、離陸がとても怖かった。
それでも早期復旧をして飛ばしてくれているのは非常にありがたい。
羽田に着き、最初にしたのが「水で手を洗う」だった。
被災地ではこんなことも叶わない。
今後も忘れぬよう当たり前をありがたく享受しようと思う。
まとめ
ほんの一週間であったが、かなりの疲労感がある。
当事者はこんなものではないと思うと、本当に心が痛い。
ところどころ倒壊している家屋、アスファルトも割れているし、マンホールは上がっている。
応急処置はどんどんされており、通れる道は増えているが、倒壊して塞がれてしまっている道はまだまだだろう。
不謹慎だなんだ言われることもあるが、テレビやラジオは「笑い」を提供することも大事だと感じた。
一ヶ月経っていたのと、幸い身内に怪我人がいなかったこともあり、悲観的になることも少なく笑いながら過ごせた。
そして、報道はしっかりしてもらいたい。
親戚は県知事が都内にいたことに憤りを感じていたが、都内にいた理由は実家に帰っていたからだと思っていた。
足りないところの指摘はいいが、事実を報道しないのは社会悪だと思う。
今の時代、情報格差が生まれてしまうのも課題になるかもしれない。
インターネットが使えないご年配の方々は、その日の炊き出しや支援物資の受け取りが出来ないでいたこともあったようだ。
半島かつ山だらけの地形は一本の道が通れないだけで大きく迂回しなくてはならない。
かと言ってこういう時のためにトンネルを掘ったり山を削って道を作っておくのはコスト面で難しそうだ。
伊豆半島や紀伊半島で災害が起こってしまったら、今回と同じように孤立集落が出てしまうのではないかと心配になる。
半島での災害も今後の課題だと思っている。
国として現実的なものを出してもらいたと願います。
災害大国の日本では個々の備えが重要だと再認識。
色々言われたこともあるが、自治体や国に頼る前にまずは自助だと思う。
被災し孤立してしまった場合、まず頼れるのは自分、家族、その場にいる人となってしまう。
現地で話を聞いていると、防災リュックを用意していたのに押し入れに入れていて取れなかったという人が多々いた。
防災リュックは玄関に置いておくということも当たり前にしないといけないと思いました。
さらに、港の復旧もがんばってもらいたい。
能登の魚は激うまですので食べに来てもらえたらなんて思います。
隆起がすごく、直すにしてもかなりの時間がかかってしまいそうですが、絶対に復活させて美味しい魚を提供してほしいです。
輪島や珠洲(すず)の地名も全国区になったので、ピンチをチャンスに変えて観光客に来てもらえるような復興が出来たらという願望を持っています。
長くなりましたが、被災地での一週間を綴らせてもらいました。
復興にはまだまだ時間が必要だと思いますが、出来ることを一歩一歩進めていくだけですね。
私も必要とあらばまた現地でお手伝いをしに行こうと思っています。
始めたばかりで読者もおらず、影響力は皆無ですが、復興したら是非輪島市を訪れてもらいたいと思います。
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